教室で*
教室でずっと黙っているとはどういうことなのか。
完全に一言も発さないわけではない。
国語の授業で音読を指示されれば指定された箇所を読む。
歌のテストも、みんなからの「うわ!声出した!」という視線が辛いがなんとかこなす。
何よりも一番怖いのは、自分の考えや感情を知られること。
意思のある存在だと思われることが恐怖。
透明になりたい。
空っぽの箱のようなものとして無視されたい。
周りの子供たちにとっても、私の存在は不可解で、奇妙で、触れてはいけないような感じだったと思う。
そのおかげで虐められるということもなかったけれど、子供たちよりやっかいなのは先生のほう。
話せるのに話さないという状態は解決されるべき!という姿勢でどんどん影響を与えようとしてくる。
自分こそがこの子を更生させる!社会に適応させてみせる!
あの手この手でプレッシャーをかけてくる。
クラスの全員を立たせ、自分の意見を言った者から座ってよいというシステムを考え出した先生もいた。
積極的な子供から順に次々と意見を言って座っていく。
大人しい子たちも最後まで残って目立つことを恐れ、意見を言って座る。
私は最後の一人になっても無表情でクラスの真ん中に立ち尽くした。
先生が腕組みをしながらみんなに聞こえるように大きなため息。
早く意見を言え、この無駄な時間を終わらせろ、クラスメイトからの無言のプレッシャー。
何分が過ぎたかわからない。
ついに涙決壊。
これが学校で泣いたのは最初で最後。
さっきまで悪魔のような目つきでこちらを睨んでいたクラスメイト達の態度が急変、私の机の周りを取り囲み、「だいじょうぶ~?どうしたの~?」今度は私に優しい声をかけた者から自分の席に戻っていいというゲームが始まった。
先生は満足そうだった。
私の個人的な問題を解決しようと努力してくれたことには感謝。
それは先生の義務でもあったのかもしれない。
でも、本当の教育は、なるべく影響を与えずに根気強く寄り添うという
思慮深さのようなものが必要なんじゃないかと思ったことがあるのでまた書く。
そのやさしさは欺瞞*
親にされた酷いことを自分の子供にはしない。
悲しい育ち方をした人たちはみんなそう考えるでしょう。
そう清く志して子育てをスタートするでしょう。
復讐のために子供を産む人はあまりいないと思う、そう思いたい。。。
・親の不機嫌は子供への暴力と同じです。
・例え家族であっても他人を感情の捌け口にするのは甘えです。
そう言い切ってくれる者の少なさよ。
人間なのだから、情緒不安定になって子供を怒鳴りつけてしまうこともある、
親が頑張っていることを子供はわかってくれる、
私はそう思わない。
その醜く感情を爆発させる姿、外で赤の他人に見せられるのか。
昨今の、ブラック企業やパワハラ上司など、嫌なことからは積極的に逃げましょう、
というスタンスにはだいたい賛成、逃げるしか解決方法がないことってある。
ただ、子供にとって家庭は絶対に逃げられない場所、世界のすべて、
そこがどんなとち狂った地獄であってもしがみつくしかない。
許し、愛されなければ死んでしまう。
鍵のかかった部屋に毎日数時間閉じ込められるなら、なるべく明るく誠実な人といたい。
親になった者を追い詰めないための優しさは欺瞞だ。
なぜおきたか*
私が人前でしゃべらない・笑わない・泣かない
子供になったきっかけ。
今では場面緘黙症は「元々不安になりやすい気質+環境の変化」がトリガーとなって起こるっていう考えが主流のよう。
一昔前は家庭環境や親の養育態度が原因となっているという考え方もあったように記憶している。
私の場合、不安になりやすい気質というのは確かにあるし、
発症したのは幼稚園入園という環境の変化がきっかけであったので
必然的にそうなったとも考えられる。
でもそれと同時期に父親が家を出て行ったし、母親がうつ病だしヒステリーだし、
家庭環境が原因と言えなくもない。
とにかく家では常に罵声、放置、母親の泣き喚き、それから気まぐれに急なやさしさ。
外では楽しそうに天真爛漫な子供たちが笑顔で話しかけてくる、仲よくしよう、みんなで協力しよう、とまっすぐに目を見て言ってくる。
なにこれ、なにこの世界、わけわからない。
気づいた*
特定の場所で話せなくなるという自分の症状に名前があったのだと気づいたのは
大学生になってからだ。
ふらっと寄ったコンビニで雑誌を立ち読みしていると、「箱庭特集」の記事が目に入った。
箱庭??これ子供の頃やったことがある。なぜ?
箱庭の中に自由にミニチュアの動物や植物を配置していく箱庭療法は、
精神障害者へのセラピーとして利用されていると書いてあった。
小学生の頃、毎週水曜日は学校を早退してある施設へ連れていかれ、
壁一面の棚にびっしりとおもちゃやボードゲームが置かれている部屋で
一時間ほど施設の人と二人きりで過ごす。
なぜそんなことをしているのかあまり疑問にも思わなかったし、
一種の習い事のようなものなのかな?と思っていた。
今思えば、そこは何らかの問題を抱える子供のための療育施設だったのだと思う。
初めて見るたくさんのおもちゃは魅力的だったが、居心地がいいわけではなく、
遊びたいおもちゃの名前を言うまで触らせてもらえなかったり、
いろいろ質問されるが答えられず沈黙。。。という苦痛な時間でもあった。
毎回最後の20分ほどは箱庭で遊ぶように指示された。
一面にきれいな砂が敷き詰められた箱の中に、水に見立てたビーズを入れて池にしたり、家や動物を配置する。なぜだか人間のミニチュアは登場させないように細心の注意を払っていたことを覚えている。
そんな記憶がいっきに蘇り、帰ってから箱庭療法についていろいろ調べていくと、
自分の幼少期にあった家以外の場所で話せないという状態には「場面緘黙症」という名前があることを知った。
大学生だった当時は、まだインターネット上に場面緘黙症についての情報はとても少なかった。
それでも、自分と同じような人がたくさんいたのだということを初めて知り、とても驚いたことを覚えている。
はじめに*
私は幼稚園から小学校6年生までの約9年間、
自分の家族以外の前では声を出したり、感情を表現することはなかった。
しゃべらないし、笑わないし、泣かない子供だった。
よくいる静かな子、というのでもなく、支援学級スレスレの子として
とりあえずクラスに存在していた。
そのような状態を場面緘黙(かんもく)症と言うらしい。
「話したくても話せない」
「どうしても話したくない」
「恥ずかしくて声が出ない」
のではない。
「この世に自分が発するべき言葉は一つもない」
この感覚が一番近い。
人と対峙すると目の前に透明のシャッターが下りてくる。
声は聞こえている。
言葉の意味もわかる。
でも返すべき言葉がない。
「なんでしゃべらないの?」
「そのままだと困るでしょ?」
「大きくなってもずっと黙っているつもりなの?」
私の子供時代はまだ今のようにインターネットで求める情報に簡単にアクセスすることはできなかったから、学校の先生も、親も、もちろん自分自身も、
私がなぜこんな人間なのか?
治療するべき病気なのか?
容認するべき個性なのか?
誰も理解できなかったし、これから先どうなっていくのか、どう生きればいいのか、ロールモデルとなるものに出会うこともなかった。
あなたは話せない。あなたの将来は暗そうだけど、誰も責任とらないからね。
ゆるやかに負の烙印を押され、突き放されていくのは恐怖。
せめて戦えるための武器や生き残りの戦略があれば。
このブログでは、ややネグレクト系の母子家庭で場面緘黙症児として育ってきた私の
学校生活、恋愛、就職、結婚、育児、人間関係について話していこうと思う。
いかに苦しかったか、悲しかったかに終始せず、なるべく具体的な生存戦略について語っていきたい。